これは高校2年生の冬に描いたF15号
只今、個展に向けて動き出そうとしています
ー「いいじゃん、『かたわ』で。絵を頑張っていけばもっと才能が開花していくかもしれないじゃん。」
母校での教育実習の際、恩師との雑談の中でこう言われた。「ヒラタは障害者になりたいのかもしれないね。」この言葉が深く私の中へ入っていくのを感じた。その夜、父と冗談を交えながら「そうかもしれないなー」なんて軽く話したっけな。私は長く付き合いのある友人達に「冷徹」「変わってる」と何年にも渡り何度も言われ続けているし、そう言う周りも周りで私からみると変わっていたりする。ただ、自分の大事な感性の1つとして、譲れないところがある。一種の変態だと思われてもいい。それは、異形 奇形 人体への愛、フェチズムだ。スプラッター系の映画なんかで、人間が一般的な人間のシルエットを成していない時、ザ・人間の向こう側にいった瞬間が、とても幸せです。最近ではCreativeDrugStoreのdooooさんの私物である「人肉MPC」に身震いしました。優しく触れてみて下さい。SIMI LAB の「Uncommon」という曲のフックに、「普通って何?常識って何?」というのがある。私は自身の絵を通してそれを各々に問いたいと思っている。または、考えるきっかけになってほしいと思う。物事は360度、様々な角度からみれる。この世に産み落とされた以上、その物事の周りを潜水や平泳ぎで楽しみながら生きていきたい。そう思いながらも実際は息をしていると生き辛さを感じるばかり。この生き辛さを抱えながらあの人もこの人も生きているのだろうか?という疑問がこの27年間の人生でよくあった。この生き辛さが我慢できないのは普通ではないのだろうかと。外に出ると、今この瞬間自分が身を乗り出したらあのスプラッター映画のように大胆に、人間の向こう側へいけるだろうか?と軽くわくわくしながら想像するのが楽しくもある。社会となかなか仲良くなれないのをどうにかしたいと思った。現実と頬擦りする仲になりたいと思った。自分を見直す、腑に落ちるきっかけがありすっきりしたのと同時に何か大事なものがするりと静かに抜けていった。それから精神的に今まで味わったことの無い喪失感を味わった。全てを無くしたと思い現実逃避する日々。異形、奇形のフェチズムからか、何も欠陥のない、いわゆる普通の人の「普通」ではなく、どこかに何かしらの欠陥を抱えた人にとっての「普通」にとても興味があった。今の私は普通の人の「普通」が分からない、この判断が「普通」なのか自信がない。幸い私の身の回りには理解しよう、サポートしようと手助けをしてくれる人に恵まれた環境にいる。生き辛さを告白し、その存在に改めて気付かせてくれた。生活を共にしている叔母には涙を流しながら「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えた。冒頭での言葉はそんな叔母からの励ましの言葉。今は「かたわ」を強さに変える時。絵を描くことーこの1つの取り柄を責任持って育て上げたい。それと同時に、憧れにも近かった、どこかに何かしらの欠陥を抱えた人にとっての「普通」を、普通の人が味わえない「普通」を、人一倍楽しんでやる。
ー失った以上のものを、作品を通して掴んで生きます。気合い。